自然保護のための土地収用を農民が批判

北海沿岸のオランダ国境近く、クノッケ−ヘイストというベルギーの町を訪ねたことがある。そもそもの目的は、ズヴィンという自然保護地区でバードウォッチングをすることだったような気がするが、砂丘地帯を歩きまわっているうちに道に迷ってしまい、よろよろと町まで戻ったような感じだったので、あまり鮮明な記憶はない。ただ、このズヴィン自然保護地区をめぐり最近もめごとが起こっているという記事を、4月3日付けの『ル・ソワール』紙で読み、少しだけ当時のことを思い出したという次第(Moins de terres, plus de Zwin. Le Soir, 2009.4.3, p.6.)。
ズヴィン自然保護地区は独特の植物相・動物相を残す汽水地帯であり、毎年30万人もの観光客が、それこそバードウォッチングなどに訪れている。この地区を120ヘクタール拡大しようという案がもめごとの原因。一見悪くない話のように思えるが、背景を知るほど事態はそう単純ではない。
地区拡大が浮上した直接の理由は、波が運ぶ砂が年々勢いを増して堆積するようになり、既存の自然保護地区の環境を脅かしていることにある。ところが、拡大の対象となる120ヘクタールのうち、90ヘクタールほどが耕作地であることから、土地を奪われる農民の反発を買うことになった。
「まったくもって不意打ちです」土地収用の対象となる10人の農民の1人、25ヘクタールを持っていかれるカトリーン・ファン−ステーンさんは憤る。また、フランドル農民連合の広報担当者であるハンス・モンメレンシー氏は、「地区拡大案は砂が堆積する問題の最良の解決策ではありません。引き潮が以前のように砂を持ち去ってくれるように、自然保護地区の一部を浚渫するなどした方がよいのです。砂が溜まってどうのこうのというのは、土地収用の口実に過ぎません」と主張する。確かに言われてみればそうかも。土地を追加するより、汽水地帯としての本質を取り戻すことが重要なのではと考えさせられる。
『ル・ソワール』紙の取材によれば、行政の事情にも疑問が多い。フランドル地域政府の環境政策担当事務局によれば、本案は実は、アントワープ近辺でエスコー川(スヘルデ川)の掘り下げを行った結果、河岸等で減少してしまった自然保護地区を代替し、EUの環境保護政策への適合性を面積上維持するために構想されたというのだ。「当初180ヘクタールを予定していたのを120ヘクタールまで縮小し、農業者の事情もできる限り配慮しました」と事務局は言うのだが、他所のツケをズヴィンに持ち込まれたことに変わりはない。
農民には当然、金銭的な補償がされるのだが、現在クノッケ−ヘイスト近辺に農業に適した代替地はないそうだ。移住を決断するのか、やむなく離農するのか。結局のところ自然保護地区拡大が実現する趨勢にある中で、環境の美名の背後に複雑な利害があり得ることを改めて思い知った気がする。

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エドワード・サイデンステッカー(安西徹雄訳)『東京 下町山の手』(ちくま学芸文庫、1992)を読んでいたら、こんな記述にぶつかった。
「上野の緑地が公園として確保されたのは、実は一人の外国人の功績だった。(中略)
オランダ人医師ボードインは、文久2年(1862年)に来日し、まず長崎、ついで江戸、さらに東京の大学で医学教育の指導に当たった。彼を長崎から呼び寄せ、上野に医学校を建てる件について意見を求めたのは文部省だったが、ボードインは期待に反して、上野は公園にするのに絶好の土地である、医学校はどこかほかの場所、例えば本郷の旧前田邸(現在の東大)でも作ればよいと主張した。
結局このボードインの意見が通って、上野は明治6年、東京最初の5つの公園の1つとなった。」(168-169頁)
手元にある他の本も探したところ、中西啓『長崎のオランダ医たち』(岩波新書、1975)にも、ごくあっさりとだが、「先年、東京の上野公園創立100年記念祭が行われたが、そのとき創立者としてこのボードウィンが顕彰されていた」(218-219頁)と書かれている(なぜ上野公園の創立者なのかの記載はこの本にはない)。
今日この頃、上野の花見ができるのも、オランダ人のおかげ、ということか。