夏休み宿題帳は役に立つのか

児童生徒の皆さんは夏休みの宿題を無事終え、新学期を迎えたのであろうか?いずれにしても、ドリルやら自由研究やら、日本の小中高校生にとって、夏休みと宿題は多くの場合切っても切れない関係にある。他方ヨーロッパでは、夏休みが年度の替わり目に当たっていることもあり、また大方の予想通りおおらかな教育風土も手伝って、強制的に学校から課せられる「夏休みの宿題」はほとんどない。ただ、2か月もの間、一切勉強をしない、させないのもどうかというので、教育系の大手出版社から「夏休み宿題帳」といったものが販売され、これを書店で買い求める親たちもそれなりにいるようだ。8月2日付のベルギー『ラヴニール』紙はこの宿題帳を話題に取り上げ、その意味や効果について考察している(Devoirs de vacances: des revisions inutiles? L’Avenir, 2011.8.2, pp.10-11.)。
新聞記者は何人かの書店主に対して、夏休み宿題帳をどう思うか尋ねているのだが、人によって考え方はまちまち。ムスクロン市(エノー州)在住のジャック・ブルゴワ氏は、今ある宿題帳は扱う範囲が広過ぎるし、内容は易し過ぎて、生徒たちの役には立たないのではないかと考えている。何分冊にもなった宿題帳を渡されても、子どもたちはそれを読み流すぐらいのことしかせず、学力向上はあり得ないだろうというのが彼の考え。そしてむしろ、子どもが比較的苦手とする科目、あるいはテーマに絞って課題に取り組ませた方が、後々の記憶にも残るし結果として良いのではないかと提案する。
しかし、ナミュール市の書店主ヴェロニク・ジロン氏は、ブルゴワ氏のような発想に根本的に反対。むしろ、せっかくの夏休みに難しい宿題帳などやらせるべきではなく、扱う範囲を広く取った上で、特に低学年についてはできるだけ子どもたちが遊び感覚で関われるような教材にすべきだと主張している。ジロン氏は最近出版されている教材の中では、例えば「スター・ウォーズ」を題材にして、描かれている「ライトセーバー」を数える(算数)とか、「スパイダーマン」に関する文章を読ませて、どれが主語か考える(国語)といった感じのものが一番望ましいというイメージを持っている。
トゥルネー市(エノー州)のミシェル・モーシャール氏の考えはまた異なっている。宿題帳は面白く作られていなければだめだというところはジロン氏と共通だが、モーシャール氏が一番重要視するのは(教材もともかく)、親が子どもに規則正しく勉強させることができるかという点。要するに、宿題帳を前にぼおっと肘をついているだけでは何の役にも立たない、子どもがしっかり帳面に取り組んでいるか、きちんと見守ることが重要だというのが彼の主張である(まあそれはそのとおりだろうけれど)。
実は親の態度については、ブルゴワ氏も似たような思いを持っている。そもそも子どもの成績に強い関心を持っている親が宿題帳を買い求め、またそれを子どもにしっかり学習させようという意欲を持っている。関心の薄い親はそもそも宿題帳など買いに来ない。しかも、日頃から成績に対する関心の高い親のもとで育てられている子どもはおおむね学力が高く、宿題帳をやっても易し過ぎてあまり役に立たないということにもなる。「宿題帳に取り組む子には宿題帳は必要ない。必要な子は宿題帳をやる気がない」というような図式なのでは、というのがブルゴワ氏の正直な感想だ。
なんというか、話がぐるぐる回っている感じで、きちんとした結論に着地する気配はない。『ラヴニール』紙は教育社会学者であるエリック・マンジェ・ルーヴァン−カトリック大学教授の見解を引きつつ、労働をめぐる地位競争が激化する現在、文化資本を多く有する中流階級家庭では子どもが(宿題帳に限らず)よく勉強し、世代間では文化資本を増加させる傾向にあるのに対し、文化資本が少ない家庭(労働者階級など)では子どもに勉強をさせずに放置する結果、世代間で文化資本はますます減少していくという、ブルデュー風の再生産理論を基に説明を試みている。まあしかし、この記事がそんなに壮大かつアカデミック風な提言をしようとしているようにも思えない。つまり、夏休みの宿題といっても所変われば何とやらではあるが、話の膨らませ方次第では妙に深刻な話題にもなってくる、といった程度に「読み流して」おけばよいのだろうか。