保健庁長官、19年目の勇退

民間企業や各種法人ならいざ知らず、日本で高級官僚の1ポスト当たりの任期と言えば、せいぜい数年が上限だろう。所変わればなんとやら、スイスでは同一ポストに19年も勤めた連邦保健庁長官、トーマス・ツェルトナー氏が、この年末をもっていよいよその職を離れるのだという。12月14日付の『ル・タン』紙は、この「ロングラン官僚」の軌跡と功罪を振り返っている(Thomas Zeltner, depart d’un gourou après dix-neuf ans à la tête de la santé publique. Le Temps, 2009.12.14, p.8.)。
ツェルトナー長官は現在62歳、これまで4人の内務大臣の下で仕事をしてきた(保健庁は内務省に属している。スイスは大臣の任期もかなり長め)。普通の高級官僚よりはるかに溌剌とし、カリスマ的な魅力があると評されたツェルトナー氏。その活発さが異例の長期政権?につながったのだろうと想像するに難くない。
彼の保健庁長官としての最大の実績は、1990年代に麻薬対策の考え方を大きく転換したことにあるとされる。それまで犯罪者として扱われていた重度の麻薬中毒者を治療すべき患者とみなすことにし、さらに、徐々に麻薬の影響から抜け出すためという厳格な制限を課した上で、中毒患者にヘロインを処方することを認める施策は、1999年6月13日の国民投票で可決され現在に至っている。この施策が今ではヨーロッパ標準となっているといった記事の書きぶりはかなり疑問(麻薬患者に麻薬では「盗人に追い銭」みたいじゃないかという論調が引き続き主流だろう)だが、少なくともスイス国内で画期的な功績とみなされていることは確か。
一方で、禁煙促進やアルコール中毒防止、肥満対策などの分野では、長官の提案はロビー活動による強硬な反対に遭うなどして、ほとんど実現しなかったらしい。特に、たばこの害を相当誇張した議論を展開したことには厳しい批判も出た。また2004年には、社会保険庁から健康保険分野の業務を引き取ったものの、人的資源の制約などでうまく機能していないとの評価も出ている。ただ、2006年にペーター・インドラ氏を健康保険局長に迎えたことが、今後の関係者とのタフな交渉を進めていく上で好人事になったのではないかとの見方もあるようだ。
ツェルトナー氏自身の19年間の足跡も、必ずしも平らかであったとは言えない。世界保健機関(WHO)ヨーロッパ地域事務局長の座を得ることに失敗し、2007年には前立腺がんを患っている。今後はハーバード大学で教鞭を取るようで、キャリア的には一段落。それでも62歳はまだまだ若い。彼のヴァイタリティをもってすれば、いずれ公衆衛生の分野で、その名前が世界的に有名になる日も訪れるかもしれない。