日本での被災、その時あなたは

本ブログの展開上、多少のタイムラグが生じるのはいつものことだが、この時期、全く地震のことを取り上げないわけにもいくまい。3月12日付『ル・パリジャン』紙は、東北地方太平洋沖地震の発生からほぼ24時間後(時差の関係で)までに集められた情報を基にして、日本にいるフランス人がこの地震にどう反応し、またどう対処したかを報じている(≪L’immeuble s’est mis à tanguer≫. Le Parisien, 2011.3.12, p.4.)。
御存知のように、イタリアなどを除くヨーロッパ諸地域では、地震を日常的に経験することがほとんどなく、日本に来て初めて地震に遭うというケースが少なくない。グーグルの日本支社に勤務していたフランス人(匿名)は、ビルの26階で地震を迎えた時の様子を、「ビルが横だけでなく縦にも揺れるのを初めて知りました」と語る。ゲームセンターで働く仏系日本人であるヨシキも職場で被災。「300キロもの重量の機械が1メートルも動きました」というから、ゲームセンター内はかなり危険な様子だったろう。ヨシキはその後家に帰ろうとしたが、新宿駅では全ての鉄道がストップ、タクシーも客を乗せないよう(本社から)指示されているということで全くつかまらず、結局20キロを4時間かかって歩き通した。通訳を務めるニコラは、被災直後の街路の様子を、「多くの人が、海岸近くに住む家族の安否を確認するため電話しようとしていました。回線がふさがっているため、ある人は泣き出し、またある人は苛立ちを露わにしていました」と報告している。
日本在住11年、「ブルターニュ出身者の会」で会長を務めるジャン−フィリップ・オドゥレン氏も、こうした大地震は初めての体験。ゲーム企業の技術者をしている彼は、地震後、働いているビルから退避するよう指示され、階段を伝って建物を脱出、余震で落下するガラス破片の被害に遭わないよう、道路の中央に避難したという。幸いにも日本人の妻と合流し、職場から比較的近い自宅に帰りつくことができたが、上りついた11階の家の中はまるで空き巣に入られた後のような惨状だったとのこと。一方、日本歴が長いフランス人以上に怖い思いをしたのが、たまたま所用で日本を訪れていた人たち。女子柔道チームの一員として訪日していたフレデリク・ジョシネ選手は、昼の仮眠を取っていたところを地震に遭遇。男子フィギュアスケートフローラン・アモディオ選手は、テレビが部屋の中を動き回るのをなすすべもなく見つめていたという。
仙台に住んでいたステファンは、まさに震源地の近くで被災することになったわけだが、「中心街までは波が襲ってこなかったので、怪我人はなく、大きな被害もありません」と注意深く説明する。こうした情報は(仙台の海辺と中心部の区別など付きようもない)フランスの人々にとって重要かつ貴重だろう。電気が消えた暗闇の中で彼は、助けを求める同胞がいないか街じゅうを探し回ったとのこと。記事では県名と県庁所在地名がごちゃまぜになっているが、フランス人は仙台(「宮城」の間違い?)に41世帯、福島に19世帯、岩手に6世帯居住しており、うち記事が書かれた段階では仙台の17世帯しかフランス大使館と連絡が着いていない状態だった。
取材を受けた人々が一応に話しているのは、被災した日本人の冷静沈着ぶり。ニコラは、パニックの様相は一切なかったと断言し、仙台のステファンも、住民が落ち着いている上に、避難所への誘導など救援の動きも秩序立っていたと述べている。ただ、これはあくまで地震当日、あるいはせいぜい翌日のこと。次第に海岸部を中心とする被災の凄まじさが明らかになり、また福島原発が危機的状況に至る中で、人々が辛うじて冷静を保ちつつも、心の奥に深い悲しみ、焦燥感、危機感を抱えるようになっていったことは、無論ここで書くまでもない。