人気漫画家、25年ぶり舞台主演

フランス語圏版の漫画「バンド・デシネ」を数多く生み出している国(「タンタン」がその代表格)として知られるベルギー。そのベルギーの著名マンガ家の一人フィリップ・ゲリュック氏は、ミシェル・ドリュッケール氏やローラン・ルキエ氏が司会を務めるテレビ・ラジオのトーク番組でのレギュラーゲストとして、フランス語圏のお茶の間で知名度の高いいわゆる「文化人」でもある。そのゲリュック氏が、昨秋から今年にかけてなんと演劇に主演することになった。ベルギーで連続公演を行った後、今年1月にフランス南西部のアングレームで開催された国際漫画祭に併せて上演し、さらに6月25日にはスイス・レマン湖畔にあるモルジュ町の喜劇祭に参加。6月6日付の『トリビューン・ドゥ・ジュネーブ』紙はこの機会をとらえ、俳優としてのゲリュック氏に電話インタビューを試みている(Philippe Geluck sera l’invité-surprise de Morge-sous-Rire. Tribune de Geneve, 2011.6.6, p.25.)。
1983年に日刊紙『ル・ソワール』への定期掲載を始めて以来、風刺漫画「猫」(名前はない。漱石に同じとはこれいかに)を各種メディアで量産し続けているゲリュック氏だが、実はもともと舞台俳優だった。70年代半ば以来、「三文オペラ」「ロミオとジュリエット」など各種の芝居に出演したり、仲間と小劇団を立ち上げたりしている。演劇活動と漫画を両立させた短い時期を経て、1985年、娘リラの誕生をきっかけに、マンガの道に専念することを決意したというから、おそらくは執筆活動が相当忙しくなってきていたのだろう。
彼は、25年の歳月を経て再び演劇に戻ってきた理由を、劇場を運営する古くからの友人を少しでも支援したいからだという。パトリック・シャブー氏が経営するマジック・ランド・テアトルは、ブリュッセル北駅のすぐ近くにあるが、近年は興業があまりうまくいっていなかった。そこでゲリュック氏が企画を発案し、新作「母に言うつもり」のシナリオを二人で共同制作。さらにシャブー氏演出、ゲリュック氏主演によって、同劇場での10日ほどの公演にこぎつけたというわけだ。
今回の劇は二人芝居という形を取り、25年前に生まれたリラさんがゲリュック氏と共演する。彼は娘について、「リラは役者を志しているわけでなく、サラダの店を開きたいと言っていますが、実は演技の才があるのです。自然ですし、可笑しみがあります。今自分が準備しているテレビシリーズのいくつかのシーンにも出てもらおうと思っています」と語り、我が子を大絶賛。記者の「あなたのその発言は演技者としてのものですか、それとも父親としての?」という質問にも、「もちろん父親としてのです。ただ、他の人たちも、彼女は役者を続けるべきだと言ってくれています」と回答する。「身内びいきは嫌いです」と言ってはいても、これではどう見ても親バカ発揮中としか見えないような気がする。
それはともかく、ゲリュック氏は今回の久方ぶりの舞台を大いに楽しみにしている。特に喜劇について、「コミカルなことを繰り広げ人々の笑いを誘うことは、自分にとっていつでも心に残る体験になります」とも述べて、劇場という一つの場を観客と共有することを心の底から喜んでいる様子がうかがえる。どうやら、政治や社会問題などもそれとなく織り込みながら、笑いの渦を巻き起こしていこうという趣向らしい。スイスでの公演は一晩だけだが、同じフランス語圏として情報や感性はだいたい共有されているはずなので、観客としてはその内容に大いに期待できるのではないか。彼を漫画家としてしか知らない、またはメディアを通してしか知らない人々にとって、新たな発見の場になることは請け合いだ。