バルザックの家の将来に暗雲か

パリ16区、パッシー駅からほど近いレイヌアール通りにある「バルザックの家」は、文豪オノレ・ドゥ・バルザック1840年から7年間住んだ場所を記念館として整備した施設。パリ市が管理運営し、文学愛好家や観光客が年間5万人以上も訪れるスポットで、最近は増築計画も進行中とされていた。ところが最近、一転してこの計画の撤回という不穏な状況が生じているという。8月17日付『ル・フィガロ』紙は、バルザックに関する著書もある作家、ゴンザーグ・サン−ブリ氏による本件に関しての問題提起を掲載している(Paris ne peut abandonner Balzac. Le Figaro, 2011.8.17, p.17.)。
パリ市がバルザックの家に隣接する3つの建物を購入したのは2001年のこと。この時点での計画は、これらの老朽化した建物を改築し、元々の記念館と合わせて918平方メートルとなる敷地を活用して、施設を拡張する内容だったと言われる。ところが今頃になって、パリ市はこの増築計画を断念することを発表し、さらに購入した建物を売却するという方針を打ち出した。こうした方針がどのように展開していくのか、現時点ではまだ不明だが、サン−ブリ氏は、近年のパリでの不動産価格高騰に煽られる形で売却が行われ、いずれ文豪を顕彰する建物を高層ビルが威圧感と共に取り囲むようになるのではないかと強く危惧している。
バルザックの家」に当のバルザックが住んでいたのは、40歳代といういわば円熟期。ピエレット、カディニャン公妃の秘密、暗黒事件、ユルシュール・ミルエ、農民、現代史の裏面といった、後に一連の作品群『人間喜劇』を成すことになる重要著作が数多く執筆されたところであり、また、テオフィル・ゴーティエヴィクトル・ユーゴーがこの家を訪問するなど、作家同士の交流の場にもなったことが知られている。また時には派手過ぎる生活の報いで債権者に追われ、裏口からセーヌ河岸に下って川舟で逃げたといった苦笑するようなエピソードも残っているらしい。
今存在するパルザックの家は、この作家が生前一時期を過ごしたパリ市内の場所のうち、当時の面影を残すたった2か所のうちの1か所という意味でも貴重である。もう1つ現存しているのは、20代後半に寄寓し、印刷機まで置かせてもらった同僚作家アンリ・ドゥ・ラトゥーシュ邸(建物はサン−ジェルマン−デ−プレ地区のヴィスコンティ通りに今も存在する)。バルザックが文筆を生業とするための修行時代を送ったマレの屋根裏部屋、30代に豪放な生活を繰り広げ、一方で『人間喜劇』の着想をも得たモンパルナス地区カッシーニ通りの屋敷、ハンスカ伯爵夫人と結婚して人生最後の日々を送った、凱旋門に近い現・バルザック通りの家などは、全て第二帝政の下で取り壊されてしまっている。その意味でも作家が生きた時代の痕跡があるレイヌアール通り沿いの建物は彼を記念するものとして圧倒的に重要であり、おろそかな扱いは許されないとサン−ブリ氏は力説する。
もっとも、サン−ブリ氏は一方で、「バルザックはつくづく運の悪い作家だ」と詠嘆の色を隠さない。なんでも数十年前、若い作家の卵たちが縁起担ぎで撫でるのを習わしにしていたという、ペール・ラシェーズ墓地の中にある墓にはめ込まれたバルザックのブロンズ像が、愉快犯によって一時的に持ち去られたことがあったのだと言う。そしてパリ市役所による今回の「仕打ち」。一定の権威を有する全国紙『ル・フィガロ』に反対の論説が大きく掲げられて、風向きが少し変わるようなことはあるだろうか。