公共テレビ局重役が語るジャーナリズムの在り方とは

メディア環境が激変する中で、ジャーナリズムがその存在意義を問われている。ウェブ上におびただしい量の情報が飛び交い、個人が手軽に情報発信することも可能になった現代。新聞やテレビといった既存のメディアに人々が情報を依拠する割合が低下しているという趨勢には、日本もヨーロッパも(あるいはアメリカや多くの途上国も)大した変わりはないだろう。このような状況下で、ジャーナリストがなすべき役割とは何か。あるいは、現代の情報環境のどこが問題なのか。9月2日付のベルギー『ル・ソワール』紙は、仏公共テレビ局であるフランス・テレビジョンの企画・電子戦略担当部長、エリック・シェレル氏に対し、長めのインタビューを試みている(Des journalistes? Mais pour quoi faire? Le Soir, 2011.9.2, p.26.)。
昨年末までAFP通信の戦略担当部長であり、その後テレビ界に移籍したシェレル氏。『ジャーナリストは今なお必要か』という近著もあり、ジャーナリズムの現在と未来にについては明晰な意見を持っている。結論から言えば彼の主張は、ジャーナリストは今こそ必要であり、また民主主義社会にとって不可欠の存在だというもの。あまたの媒体を通じて過剰な情報が流れ続けている現在において、それらを選別し、内容を確認した上で、新聞やテレビ等各種メディアを用いて提供することにより、人々は自らが知るべき情報を、無駄な時間を費やすことなく手に入れることができる。さらに、それぞれの情報の背景や連関を明らかにすることで、情報を受け取る側がそのコンテクストを理解し、ある種の社会像、世界像を思い描くことを可能にするという点も、ジャーナリズムの重大な使命であると考えられる(実は当ブログ筆者も、この後者の点にこそ、新聞等の既存メディアの決定的な重要性があると考えている。新聞がすたれてしまい、脈絡の見えにくい情報の海に取り残される事態を想像するのは、自分にとって実に恐ろしい)。
ただ、シェレル氏は一方で、既存のメディアはウェブやソーシャルメディアといった新たな情報源の持つ力をよく認識し、自らの情報提供の在り方を再検討するきっかけにすべきだと述べることも忘れない。むしろ新しいメディアとの連携を積極的に探り、もって自らの持つ情報を増やしていく方向性が望ましいのではないかと主張する。自分たちだけの閉じた領域から情報を発信していこうというのも今や適当ではなく、事実関係の確認にせよ論説にせよ調査報道にせよ、ブログやツィッターを使って情報を送り出している人々(なかには多くの専門家もいる)とつながりながら豊かな情報を提供できるようにすべきなのだ(無論間違った情報は選別の過程でよく見極めなければならないが)。シェレル氏はこうした新しいジャーナリズムを実践している人物として、いわゆる「アラブの春」に関し、現場の市民や当事者によるブログやツィッターを徹底的に読み込み、またそれらの筆者と緊密なつながりを保つことで、アメリカのメディアで最も充実した報道を展開することに成功した、公共ラジオ局NPRのアンディ・カルヴィン記者を挙げている。もちろん「アラブの春」の場合は、政治過程の進行そのものがソーシャルメディアによって促進されたという点も、忘れるべきではないだろう。
シェレル氏は、大手新聞社が自らのブランド力を頼りに(例えば『ル・モンド』紙はとりあえず信用できるとか)生き残りを図ろうとしていることにも懐疑的だ。そもそも、ブランドという考え方そのものがこの場合は凡庸に過ぎるし、若者たちは新聞をブランドと思ってすらいない。むしろ友人知人のネットワークからの情報こそ信頼するというのが多くの若者に見られる傾向であって、まさに「名前に胡坐をかいて」いるのでは、若年層を中心に多くの読者を失う傾向を押しとどめることはできないと彼は断言している。その代わりに提唱されるのが「ジャーナリズムの拡張」という考え方。例えば、既存のメディアがインターネットで情報提供を企図する場合は、有料コンテンツと無料コンテンツをうまく組み合わせて、読者のニーズに合わせた適切な展開に心掛ける(ニューヨーク・タイムズフィナンシャル・タイムズがこの種の優良事例)。また紙面作成に際しては、今まで以上にプログラマーやコンピューター・デザイナーといった人たちの力を借りて、「いかに見せるか」に力を入れる。そして前述のように、ソーシャルメディアを通じた読者との交流や情報交換の成果も、不断に報道で生かしていかなければならない。
テレビの世界も(特に情報分野に関しては)状況は似たようなものと言えるだろう。シェレル氏はまさに現在公共テレビに身を置き、現在の技術革新を踏まえたコンテンツの刷新を検討し始めている。フランス・テレビジョンでは、間もなくポータルサイトが新たに立ち上げる予定であり、また一方でテレビのニュースコンテンツの入手に特化したアプリを開発しているとのこと。洞察に溢れたジャーナリズム論を展開するシェレル氏が、テレビ局運営においてその知見をどのように活かし、次の手を打ってくるのか、今後が大いに注目される。
ところで、9月13日付『朝日新聞』の紙面批評で、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は、日本のマスコミを巡る現在の基本的な問題として、それがもはや「情報のプラットホーム」として機能していないことを指摘し、人々の間の情報格差をこれ以上拡大させないために、新聞はその本来あるべき責務を果たすべきであると論じている。シェレル氏と内田氏のメディアに関する認識や主張には共通する点が多い。今日のブログの冒頭で書いたように、新聞に代表される既存メディアへの期待が相当度に失われてきているという危機的な事態は、やはり洋の東西を問わない現実と言えるのではないだろうか。