「セザンヌとパリ」がテーマの展覧会

印象派、もしくはポスト印象派を代表する画家の一人として知られるポール・セザンヌ。彼の画業は、後半生に繰り返し描いたサント−ヴィクトワール山に代表されるように、生まれ故郷でもある南フランスを地盤になされたというイメージが強いが、実は40歳ぐらいまでにパリやその近郊で生まれた作品もかなりの数にのぼっているし、彼は生涯、故郷であるエクス−アン−プロヴァンスとパリとを行き来すること多く、その意味でパリやイル−ドゥ−フランス地域圏は、セザンヌのキャリアに大きな影響を与えているといって間違いはないだろう。10月16日付『ル・パリジャン』紙は、パリ周辺地域とこの画家の複雑な関係を辿ろうとする現在開催中の展覧会について、その内容と意義を解説している(Ile-de-France, île au trésor de Cézanne. Le Parisien, 2011.10.16, p.30.)。
現在開かれているのは、その名もずばり「セザンヌとパリ」という、リュクサンブール美術館の特別展。アメリカを中心に各地から集められた、この地域とセザンヌの関わりを示す多くの作品が余すところなく展示されている。ピサロと画架を並べて制作にいそしんだというポントワーズやオーヴェル−シュル−オワーズ(どちらもパリ東郊、ヴァル−ドワーズ県)は当然焦点となる土地。また、パリそのものを題材にした作品は全5点のうち4点がこの展覧会に集められており、その他にもマルヌ河やセーヌ河上流を描く名品など、企画のみならず展示品群も充実しているように見える。
セザンヌはパリ周辺で合計22か所に移り住んでいる。その最初が、エミール・ゾラの勧めで1861年に初めてエクスを離れ、居所を構えたダンフェール通り(9区)。しかし20歳代の彼は全く不遇だった。美術学校(エコール・デ・ボザール)には入れず、サロン・ドゥ・パリでも落選が続く。「この時期12年間というもの、彼の作品は1枚も売れませんでした」と、『セザンヌからピカソまで』等の著書を持ち、当展覧会の役員を務めるマリリン・アサンテ・ディ・パンジッロ氏は説明している。
そんな中、ピサロセザンヌをパリ郊外、オワーズ河岸の静かな村へと誘い、そのことがセザンヌの元気を多少なりとも取り戻させる機会となった。またこの時期は彼らにとって、印象派をより永続性のある、また堅固な基盤を持った存在にするべく、その作画のテクニックを徹底的に磨こうとした時期でもあった。イル−ドゥ−フランスの変わりやすい空、様々に表情を変える光が、セザンヌの画業のある部分を特徴づけ、また印象派とそれ以降の画法を形づくることに少なからず貢献したのである。
今回の展覧会に出品された絵画の多くはアメリカから運ばれたものだが、なかには、モナコ大公アルベール2世が日本のコレクター(誰?)から買い取った「オワーズ河の岸辺の風景」や、エルミタージュ美術館所蔵の「マルヌの川岸」といった作品も含まれている。また、展覧会担当者はカタログ作成にも非常に力を入れ、パリ付近での画家の居所を全て明らかにすべく追究したり、それぞれの作品がどこで描かれたのかを確定しようとしており(しばしば抽象性の高いセザンヌの絵からは、場所を明らかにすることはしばしば非常に難しかったようだが)、結果として価値の高い資料ができあがったようだ。
最終的にはエクスの画家だったとされるセザンヌの業績に、新たな光を与えるきっかけとなるか。本展覧会は2月26日まで開催されている。