サプライズ感情の現代的意味とは

クリスマス恒例のプレゼント交換、もらったギフトを開けてみてびっくり…といったような、ちょっとしたサプライズ。この季節はそんな驚きの気持ちを感じることも少なくないと思うが、一方で万事が予定調和、特に驚くような出来事には最近出会ったことがないという人もいるのではないか。12月3日付ベルギー『ル・ソワール』紙の別刷り冊子「ヴィクトワール」では、サプライズの感情の持つ意味とその現在について、一冊の書籍を軸に検討している(Surprise? Le Soir – Victoire, 2011.12.3, pp.51-53.)。
ここで取り上げられている図書は、パリの南西340キロ、ポワティエ市のアンリ・ラボリ医療センターで青少年精神科医を務めるダニエル・マルセリ氏が著したその名も『驚き』という本。怒り、怖れ、嫌悪、喜び、悲しみと並ぶ人間が持つ6つの普遍的感情の1つと位置付けられる「驚き」だが、これまでこの感情が正面切って論じられることは少なかった。しかも著者によれば、現代社会はこの驚き、サプライズというものを忌避し、できるだけそれなしで済ませようという誘因が強く働いているという。嬉しい驚きはともかく、がっかりする類の驚きはある種の「リスク」と考えられ、「リスク・ゼロ」を指向する社会においては排除の対象になる。さらに度が過ぎると、喜んでもらえるか分からないプレゼントにさんざん頭を悩ませるより、そもそもお互いにプレゼントなどしないと決めた方がまし、というような発想が出て来かねないのも現実の状況となっている。かつて人類学者のマルセル・モースが人間の本源的活動の一つとして「贈与」を挙げたことすら、もはや過去の(実は普遍性を持たない)テーゼであったと総括されかねない状態になっているのだ。
マルセリ氏によれば、人は驚きを感じる時に、人間関係が機械的なものではあり得ず、常に何らか不確かさをつかむ類のものだということを想起するのであり、その意味でサプライズの瞬間は人間の成長、確かな育ちにとって欠かせないものである。乳幼児に対して大人が振る舞う「こちょこちょ遊び」(日本には同じようなものはない?「たかいたかい」とか、「いないいないばあ」などと共通点もあるようだがそれとは別)は、遊戯の外観のうちに驚きの感情を子どもに体験させるという、発達心理学上極めて意義のある役割を果たしている。こうした驚きに対する慣れを幼少期に十分経験しない場合、状況によっては病理的な偏執状態、あるいは一種のパラノイア的症状が引き起こされることになると著者は説明する。上記のようにこういった事態が社会全体に一般化されているとすれば、それこそが渡辺利夫氏のいう「神経症の時代」(1996年開高健賞受賞作)なのかもしれない。
本書を通じてマルセリ氏は、驚きの感情が人間にとってどれほど重要で、かつ意味のあるものであるかを説明しようとしていると思われるが、この記事からはその中味までは(当然のことながら)窺えなかった。実際に本書(アルバン・ミシェル社から1996年に発売された旧刊。定価21.50ユーロ)を手に取り、それぞれの読者が読み込むべき事柄なのだろう。