TVチャンネル増加時代をいかに制御するか

世界的にますます多チャンネル化の傾向が見られるテレビ界、日本では最近もBSデジタル放送で新たなチャンネルが追加されつつある。ただ一方では人々のテレビ離れが広範に進んでいるとの指摘もあり、どんなコンテンツをいかに見せるか、その真価が問われているとも言えるだろう。フランスでも地上デジタル放送のチャンネル増が見込まれているが、1月27日付の経済紙『ラ・トリビューン』は、無定形な多チャンネル化に懸念を示すエコノミストパスカル・ペッリ氏の論説を紹介している(La télé de demain sera payante ou ne sera pas. La Tribune, 2012.1.27, p.23.)。
ペッリ氏は、近く割り当てのある地デジの新しいチャンネル(6つ)について、無料放送を実施する企業に割り当てるという方針を政府が取っていることに強く反対する。無料チャンネルが新たに参入してくると、そのビジネスモデルは基本的に従来の無料民放テレビ局と同じということになり、広告(コマーシャル)収入をめぐる放送局間の競争が激化。さほど大きくないパイを多数で獲り合うことが予想される上、広告が取りやすい番組構成ということで、情報番組、再放送、ドラマ・映画といった他と代わり映えせず新機軸も全く見られない放送が続々流されることになるのではないかというのが、ペッリ氏の見立てである。
しかも問題なのは、無料チャンネルの拡大という方針が、テレビや放送の近未来像に対する洞察を欠いた、非常に近視眼的なものになっていること。お茶の間に座ってテレビを見るという従来型の視聴モデルは今や過去のものになっている。各種タブレットスマートフォンで自由に映像を楽しむというスタイルが若者を中心として急速に拡大しつつある。グーグルTVやアップルTVも、普及間近とは言えないまでも現在胎動中。フェイスブックは2011年に英FAカップのアマチュア試合を「放送」し、それ自体はさほど注目を浴びなかったものの、将来に向けての展望の有無を試したものと受け止められている。
テレビ界は、コンテンツの質を向上させることで、こうした環境変化に対応していかなければならないが、無料民放局には(いくらチャンネル数を増やそうと、いや、チャンネルを増やせば増やすほど)そうした希望がないというのがペッリ氏の見解。一方で彼は、公共放送(フランス・テレビジョン)、そして有料民間放送局には、内容や構成に斬新さのあるプログラムが見られると評価する。そして、ここでは公共放送は話の枠外に置きつつ、新しく付与されるチャンネルを有料放送とすることで、コンテンツ改革が起きることを期待すると表明するのだ。
これまで有料民放は多くの困難に直面してきた。一つは、特に衛星を通じて放送を展開しようとした場合、衛星による番組送出について絶対的な地位を確保しているカナルサット(放送局であるカナルプリュスグループの100%子会社)を実質的に利用せざるを得ず、結局カナルプリュスの立場を脅かす放送局が絶対に育たない状況になっていたこと。さらに、非常に多額の送信費用(1年当たり600万ユーロを下らない)がかかる他、受信契約者を確保するためには元手となる資金も相当必要ということも、新規参入候補業者を尻込みさせる大きな要素となっている。
ただ、2011年秋に競争委員会(日本で言う公正取引委員会)が、衛星放送会社TPSと前述のカナルプリュスの合併案について(過度の集中が生じるとして)承認取り消しを行ったことは、これ以上の新規参入抑制に対する歯止めになり得るという意味で、ある種の希望でもある。ペッリ氏はこれを一つのきっかけとして、視聴覚高等評議会(放送分野の独立規制機関、CSA)が競争委員会と連携しつつ、有料テレビ放送業への新規参入の障壁を下げるべく最大限の努力をすべきだと主張する。そしてそのことが、テレビ業界に新しいメディアからの浸食を受けるだけでない活力、また魅力あるコンテンツをもたらすことにつながるとの見通しを示している。
彼の主張の言わんとすることは分からなくはないのだが、「有料放送にすればコンテンツが良くなる」という論理は本当に成り立つのだろうか。日本的文脈で考えれば、多数の受信契約者が現れ、ペイするような有料放送局は、いくつかの例外を除けば、一般の人々の視聴欲をそそる内容を中心とするものに限られ、コンテンツの革新をもたらしはしないのではないかという感想を持たざるを得ない。それとも、フランスの現状を背景とすれば、そこのところが大きく変わってくるのだろうか。
ところで『ラ・トリビューン』紙は、1月30日を最終発行とし、以後紙媒体としての刊行を休止している。大衆紙フランス・ソワール』が2011年12月13日で最後になったのに続いての全国紙の休廃刊。当方としてはこの場で取り上げる素材が減ることにもなるので寂しさを禁じえないが、両紙共にもともと少ない発行部数にあえいでいたことがあり、またフランス程度の人口の国で(『レゼコー』紙と共に)2紙も経済紙が生き残り得るのかという疑問もあったので、結局は仕方がないのだろう。それにしても、上で取り上げたペッリ氏の論説を流用すれば、新聞もこれまでの購読モデルによりかかり続けるわけにはいかない、ということになるのではないか。いずれにしても多難な時代ではある。