教会は生き残れるか、それが問題だ

カルヴァンゆかりの地ジュネーブを擁するスイスはプロテスタントの国となんとなく思い込んでいたけれど、国勢調査によればカトリックプロテスタント(改革派)の比率はほぼ半々で、むしろカトリックの方が多いらしい。それでも改革派教会がスイス社会で占める地位には確固たるものがあるはずだが、どうも最近はそれにも陰りが見え始めているようだ。5月2日付の『ル・タン』紙は、一部で展開されているいわゆる「改革派教会の改革」をめぐる議論について、その真摯な内容の一端を伝えている(≪L’Eglise protestante va s’écrouler si l’on ne fait rien≫. Le Temps, 2012.5.2, p.12.)
今回記事になっているのは、最近刊行された『時間がない!教会が危機から脱け出すための思索』という書の著者で、現在ローザンヌ大学の学内牧師等を務めるヴィルジール・ロシャ氏へのインタビュー。昨年、同校の宗教研究センターに所属する2名の社会学研究者が、「伝統的なプロテスタント教会は消滅の危機にある」という刺激的な展望を示した著書を出し、以後、教会内部からもそれに呼応する形での論説や主張が相次いでいる。ロシャ氏の本もこの流れにあり、またタイトルからも察せられるように、社会学者の分析をおおむね是としつつ、教会がその状況からいかに脱却すべきかを論じているようだ。
彼がまず強調するのは、改革派教会が1960年代以降、とりわけ68年より後に起こった大きな社会変動に完全に乗り遅れてしまっていること。人々の生き方、考え方が大きく変わり、宗教に対してもただそれに「従う」というのではなく、「説得されて信じる」という意識に変わってきているのに、教会側がそうした変化を理解せず、せいぜいのところお役所仕事的な対応に終始したために、信者層(ミサへの出席者など)の急激な高齢化が進んでいる。ロシャ氏はそうした人々がこの世を去る10年後か15年後には、教会は実質的になくなってしまうのではないかと本気で危惧している。
そうした事態を回避するためには、教会を開かれた存在、現代を生きる人々に受け入れやすい存在にしていかなければならない。典礼の見直し、簡素化は必須であるが、形式を変えれば済むという話でもない。これまでのように「教会が人々を受け入れる」というだけでなく、「教会から人々に会いにいく」という姿勢を模索すること、「人のためにしてあげる」という立場から「人とともにある」という立場に変化することによって、現代人にとって改革派教会が果たし得る役割を共通分母的に拾い出していくことが求められている。教会としてのアイデンティティは明確にしておく必要があるけれど、その中に閉じこもるのではなく、いわば「開かれたアイデンティティ」というのを日々の実践に生かしていかなければならないのだ。
ロシャ氏は「現代」を、人間的であることそれ自体が困難である時代ととらえる。人々は何事につけても完璧に任務をこなすことが要求されているが、いくら「自己責任」と言われても、身の回りに起こるすべてについて個人が責任を引き受けるなど容易なことではない。そして、こうした「現代」だからこそ宗教が求められるということもあるのではないか。逆説的に見えても信仰の中で人間性を取り戻すこと、キリスト教の世界観によれば、神が我々を分け隔てなく愛してくれるという安心感が、生きることに意味を与える。こういった、今まさに切実な、実存に係るテーマに取り組むためにも、教会の大規模な改革が必要なのだというのが、ロシャ氏の主張の要であると思われる。
彼の提言については、詳しくは上記で紹介した著書を読めばよく分かるのだろうけれど、記事で読む限りはやはり「具体的な方策はあるのだろうか」という感想が避けられないように思われる。ロシャ氏は参考になる事例として、東西文化に橋を架けるロシア正教の伝統(特にその瞑想に関する考え方)、アメリカの「公共宗教」的な動き、さらにフランス・ブルゴーニュ地方で活動しているテゼ共同体(教派を超えた男子修道会)などを挙げているが、それがスイスのプロテスタントにどのように反映可能なのかは明らかでない。ただそういったあたりについては、現在、彼が日々活動しているその内容の中に、数々の模索があると考えるべきなのだろう。明日の教会をめぐる危機感が露わになったこの時点から、どういった展開がなされるのか、スイスでの動きに注目が集まる。