香水「アナイスアナイス」は80年代の申し子

フランスの新聞では、夏休み期間になると明らかに「これは事前に書きためておいたのではないか」と推測できる特集記事の類が多くなる。ヴァカンスが権利として確立している国のことだけはあるが、もちろん事前準備記事だからといってつまらないわけではなく、かえって時事的な報道にとどまらないすぐれた解説・評論が掲載されることもあるようだ。今回取り上げるのはそんな記事の一つ。8月17日付『ル・フィガロ』紙は、現代の香水に関する年代記の連載の一環として、80年代の香水文化をテーマとし、その背景を探っている(1985 Anaïs Anaïs de Cacharel. Le Figaro, 2012.8.17, p.13.)。
ここで1980年代を代表する香水とされている「アナイスアナイス」は、古代ペルシャの愛の女神であるアナイティスからその名をとったと言われる(ちなみに、日記作家として有名なアナイス・ニンとは無関係とのこと)。1978年にカシュレル・ブランドの下で発売されたアナイスアナイスは、ロレアル社とライセンス契約を結びつつ生産したオードトワレであり、1958年に服飾企業として出発し、プレタポルテを展開してきたカシュレルにとっては初めての香水への進出となった。ちなみにカシュレル社を創業したジャン・ブスケ氏は、1983年から12年間ニーム市長を務めるなど、政界も含めて幅広く活躍した人物として知られている。
このオードトワレは、スイスに本拠を置くフィルメニッヒ社に在籍していたロジェ・ペリグリノ、ロベール・ゴノンなど計4名の調香師の合議により共同制作されたという点でも世界初のユニークさを有していた(それまでの香水は全て一人の調香師独自の直感に基づいて作られていた)。そして作り手たちの思惑をはるかに超えて、アナイスアナイスは大成功し、ある時期は世界で一番の売上げを誇る香水になっただけでなく、80年代の若者、ティーンエイジャーの風俗の一部を象徴するほどの存在になったのである。
1985年、ある雑誌は「アナイスアナイス世代」という言葉を用いた。それまでどちらかというと16歳ぐらいであった「思春期」のイメージはこの時期には13歳ぐらいまで下がり、おませなローティーンたちが背伸びをすることがごく一般化したのだ。彼女らがロールモデルにしたのは、1980年に公開されて大ヒットした青春恋愛映画『ラ・ブーム』で主役のソフィー・マルソーが演じたヴィックという女の子。子ども用のパジャマは着るけれどカフェにも行ってみたい、そんな同世代の意識が映画ではうまく掬いあげられていた。しかもこの時代には、ローティーンたちもお小遣いをためてある程度のものを買うことができるようになってきており、そのことを察知した生産者たちは彼女らを意識した商品づくりに力を入れるようになった。
そんな中で一時代を築いたアナイスアナイス。香水の歴史に関する著書もある評論家、エリザベート・ドゥ・フェイドー氏は、「このオードトワレは、まさにマーケティングの賜物です。カシャレルが作りだした流行の要素と、一方で不変の要素、すなわちロマンティシズムとのバランスが完全に取れていたのです」と大成功の背景を分析する。香水は大人向けのアイテムであるにもかかわらず、白百合を基調とし「優しくふんわり」とも形容される香りのこの商品には、何かしら親世代をも安心させるところがあり、このため母親が思春期の娘に買い与えるようなシーンもしばしば見られたと言われる。まるでそれをつけることが、女性の階段を一歩上がるためのある種のイニシエーションででもあるかのように。
写真家サラ・ムーンが製作した広告も大いに注目を集め、やがて香水それ自体だけではなく、ポシェットや化粧品といったタイアップ商品にまで売上げは拡大していった。そして、フランスのみならず、イギリス、ヨーロッパ各地、さらにアメリカにも人気は広がった。まさに当時の風俗や社会意識とクロスしつつ、時代を画した商品と言えるだろう。もちろんその後、香水をめぐるトレンドは様々に変わったが、アナイスアナイスは今でもロングセラー商品として根強いファンをもっているという。そしてまたこのオードトワレは、おそらくそれを体験しなかったものにはわからないような熱気を、同時代である1980年代にはまとわせていたのではないだろうか。