薬品の有用性に多くの疑問?

日本で「薬漬け医療」が批判されて久しい。その原因の一つと言われた医薬分業の欠如は、ヨーロッパにおいては無縁のことであるはずだが、どうも医者と薬局がきれいに分かれているからといって、医薬品への依存度が低くなるということではないようだ。最近フランスなどで、医療における薬の意味、有効性等に疑問を投げかける声が相次いでおり、9月14日付のベルギー『ル・ソワール』紙はその新しい動きを報じている(≪Il faut jeter la moitié des médicaments≫. Le Soir, 2012.9.14, p.31.)。
現在特に話題になっているのは、最新刊の『有用、無用又は危険な4000種の医薬品ガイド』と題された図書。一つひとつの薬品、薬効成分に詳細な説明と判定を加えた結果、900ページ以上もの大部になった本書は、決してキワ物とはみなされていない。それどころかその著者が、パリ第5大学(ルネ・デカルト大学)の元医学部長で、現在は同大名誉教授のフィリップ・エヴァン氏と、医師であり国民議会議員でもあるベルナール・ドゥブレ氏という、その道のかなりの権威とみなされる人物であることが、問題をさらに深刻、かつセンセーショナルなものにしている。
『危険な医薬品ガイド』の記述は相当に過激なもので、「(一般に使われている医薬品のうち)50%は無意味なものであり、20%は扱いに問題が多く、さらに5%は潜在的に危険なものである」という結論を打ち出している。そして、こうした事態に至っている原因の一つは、新たに作られる薬のかなりの部分がこれまでにつくられている薬の(劣化した)コピーに過ぎず、それゆえに本質的な有用性を持たない代物であることだという。また、CMにものを言わせて無理やりにでも売り出そうと試みるような薬品群も(これは日本にも共通点がありそうだが)少なからず存在するとも指摘している。
著者らの主張によれば、この20年間で見る限り、本当に飛躍的な効果をもたらすような医薬品成分などは全く発見されておらず、せいぜいニッチ的な意義のあるものがいくつかあるかもといった程度。一方で製薬企業の研究開発費はうなぎ昇りの状態で、しかも仮に新薬を開発したとしても、その利益は数年で失われ、数十、数百の(新製品という名の)類似商品、ジェネリック薬品に駆逐されてしまう。本来は20%の収益率を確保する必要があるにもかかわらず、普通に生産販売を続けていてはそれにほど遠いといった現状のもとで、各企業は短期的な利益の確保に走り、いわゆる適応外処方が横行したり、さらにはこれまで病とみなされなかった身体症状が新たに「疾患」と認定され、薬が処方されるというような事態(専門用語で「病気喧伝」というのだそうだ)が(CM等での広報普及活動によって)広範に起こっているのである。
こうした著者の主張に、医薬業界はもちろん猛反発。ベルギー製薬連盟は『危険な医薬品ガイド』について、「取扱い方が無責任だ。製薬業は最も規制された業種の一つであり、新薬の登録や販売までに必要とされる研究の規模と量、そして科学的知見は他を大きく上回る。こうした制度に疑義をはさむことは、患者たちが医者や薬品を信用できず、動揺する状況を招くおそれが大きい」と声明を発表している。しかし、『ル・ソワール』紙がインタビューした2名の専門家は、いずれもそれなりに同書の意義と正当性を認める立場に立っている。ブリュッセル自由大学教授でベルギーの保健高等評議会議長も務めるジャン・ネーヴ氏は、上記に示した医薬業界の収益構造の変化を今日の事態を招いた主たる原因とみなし、新薬開発業者の利益確保の必要性を示唆すると共に、薬の副作用をチェックし、また国民が健康をよりよく維持するために必要かつ適切な方法を検討する公的機関の活動強化、医薬品の詳細な知識を有する医師の育成等の必要性を指摘する。一方、同大学で総合診療及び社会医学を専攻するミシェル・ロラン教授は、医学雑誌等を主要な舞台とする医薬品マーケティングが過剰競争を生み出していると指摘し、上記の「病気喧伝」のような事態が横行する中では、薬について需要と供給に基づく市場原理は正常に機能しないのではと危惧を表明している。
エヴァン氏とドゥブレ氏が上記の著書で示している個々の点には、確かに行き過ぎたレッテル貼りもあるのかもしれないが、彼らが医薬品の供給体制について行っている根本的批判には、少なからず深刻に受け止めなければならない部分があるのではないか。フランスでは昨年、高脂血症治療薬「メディアトール」の副作用による薬害で500人以上が死亡するという事態を受け、薬の安全性強化を目的として薬事行政を見直す法律が昨年12月に制定されたばかりだが(服部有希「【フランス】医薬品の安全性強化のための法律」『外国の立法』2012年2月)、今回起きている騒ぎはこの新法の有効性にも大いに疑義を投げかけることになっているのではないだろうか。