ユンケル・ユーロ圏財務相会合議長の「長かった8年間」

単一通貨ユーロの制度運営を協議するユーロ圏財務相会合(17か国で構成)の議長を長年務めてきたジャン−クロード・ユンケル氏が、1月21日付でその職を退いた。ルクセンブルクの首相兼財務相であり、ただでさえ多忙な日々の彼にとって議長在任期間、とりわけその後半期は、欧州金融危機の真只中で気の休まる間もない激務の連続であったに違いない。同日付のフランス経済紙『レゼコー』は、今回の経緯と共に、ここに至るまで同氏が辿った道を改めて振り返っている(La zone euro choisit un Néerlandais pour son instance de pilotage. Les Echos, 2013.1.21, p.8.)。
ユンケル氏がユーロ圏財務相会合議長のポストに就いたのは2005年1月。当初その任期は2年だったが、2011年の4期目からは2年半となり、一応2012年の7月をもって職務を終えることになっていた。結局この時は、ファン−ロンパウEU大統領からさらなる続投を求められてこれに応じたが、本人は「半年以上はもうやらない」と条件を付けたという(『日本経済新聞』2012年7月1日)。そしてようやく8年の勤めにピリオドを打ち、念願していた退任の日を迎えることができたわけだ。周囲ではこのまま2014年まで辞められないのではないかという見立てもあったようだから、本人にとっては、やれやれよかったというところだろうか。
いわば「辞めたくても辞められない」状態に彼が置かれた(すなわち後任が決まらなかった)理由は、ひとえにユーロ圏の二大強国、ドイツとフランスがこの点について折り合わなかったことにある。もちろん両国のどちらかから人を出すという考え方もなかったわけではないが、それでは他方が最終的に納得できない。一時はドイツのヴォルフガング・ショイブレ財務相が有力視された経緯もあるとは言え(『日本経済新聞』2012年4月10日)、やはりフランスの了解を得ることができなかったようだ。今回出現した妥協策は(ルクセンブルクもそうだが)独仏のどちらでもなく、しかも財政的に健全な国であるオランダからの人選。昨年11月に成立したマルク・ルッテ首相による第2次内閣で財務相に就任したイェルーン・デイセルブルーム氏がついに後任として大方の了承を得ることとなった。
実はこのデイセルブルーム蘭財務相、本国では農業や教育畑に詳しい人物とされており、経済財政関係の実績は全くと言っていいほどない。しかも財政上の立場としてオランダはドイツに近い(いわゆる健全重視路線)だけに、フランスのピエール・モスコヴィシ財務相はデイセルブルーム氏を政策の素人として批判し、人選に反発を示している。仏独両方が納得するのがどれだけ難しいかを示すような話だが、実際問題として財政健全性の面で疑問符がついている(国債の信用格付けが最高ランクでない)フランスから名乗りをあげるのはほぼ不可能と見られているので、オランダというのは絶好の落とし所だったのだろう。もっとも当のデイセルブルーム氏はやる気満々で、この会合を通じて議論の領域を広げていきたいと早くも意気込みを語っている。只今のところは多少金融危機も落ち着いてはいると言えるものの、キプロスに対する救済プランの画定や「銀行同盟」(金融監督の一元化)の実現など、課題は山積みになっている。しかも危機がいつ再燃するかわからないといった中での船出、果たして幸多いものになるかどうか。
一方で『レゼコー』紙は、ユンケル前議長のこれまでの実績に対する評価も試みている。確かに彼はヨーロッパ統合に熱意を燃やしており、単一通貨の適切な運営という自らの職務に力を注いでいた。小国出身ということがあり、ユーロ圏で弱い立場にある国々への気配りには定評があったとされる。ただやはり残念なのは、「仏独間の対話の調整者」たらんと目標を掲げたものの、(その目標の困難さゆえに)必ずしもそれを果たしたとは言えないこと。特に金融危機の時期には、独仏首脳がギリシャ支援や欧州金融安定基金の設立などを直接決定していく中で、いわば蚊帳の外に置かれていた感すらあった。さらに、ユーロを代表する人物として、欧州中央銀行(ECB)総裁に明らかに遅れを取ったという事実も見逃せない。ブリュッセルに本拠を置くシンクタンクブリューゲルのジャン・ビサニ−フェリー元所長の調査によれば、2010年1月から2012年6月までの間に、ティモシー・ガイトナー米財務長官が(欧州金融情勢に関連して)ECB総裁に電話したのは58回だったのに対し、ユンケル議長へのコールはたった2回しかなかったとのことだ。
いずれにしても、フランスとドイツとの間に入って苛烈な日々を過ごしたユンケル氏は、最近は疲労をしばしば訴え、母国ルクセンブルクのためにもっと力を注ぎたい(首相兼財務相なのだから当たり前だが)、そして欧州再構築についてより自由な立場から発言したいとの希望を漏らしていたとされる。今後は危機対応の最前線を経験した政治家として、ヨーロッパの将来を見据えた意見が披歴されることをぜひ期待したいものだ。