時計業界の構造変化を詳細に検討

最近、香山知子氏の『スイス時計紀行』(東京書籍、1994)という本を読んで、改めてスイスの競争力の一端を担う時計製造の歴史と現状に興味が湧いた。一級の時計の値段がどうして高いのかも何となくわかってきたが、残念ながら購買欲を喚起するところまでは至っていない…。さて、いずこも同じでこの業界も現在まさに大きな変動期に直面しているとの見立ては的外れではないだろう。4月24日付の『ル・タン』紙において、ジュネーブの老舗プライベートバンク、ロンバール・オディエで消費者向け商品担当のアナリストを務めるナタリー・ロンゲ氏は、時計業界における基本的な構造変化や、その背景にあるいくつかの状況に関し論説を展開している(Un nouveau paradigme dans l’horlogie. Le Temps, 2013.4.24, p.14.)。
彼女がスイス時計業界の構造変化として挙げているのは3点だが、各項目はそれぞれレベル感が異なる。最近見られる一番大きな変化は購買層をめぐるものだろう。とりわけここ5年、中国人によるスイス時計の購入が顕著であり、市場におけるその割合は今や25%にも達している。また、中国におけるいわゆる中間層の拡大をうけて、今後もこの傾向は強まるものと見られている(2011年時点で中国人潜在的顧客数が2,900万人とされるのに対し、2025年にはこれが1億9,000万人まで増えるとの予測がある)。中国人は近年になって、ますます高級時計指向を強めているとされ、男性がビジネス贈答用に購入するケースが多く、売上高の半分以上を中国国内の販売網に依存しているブランドも少なくない。
中国人による爆発的とも言える需要、一方でヨーロッパやアメリカの人々の消費に対する停滞感等を踏まえると、今後スイスの時計は、それぞれブランドの特質をよく踏まえ、今まで以上に精緻で適切な販売戦略を練らなければならない。最高級ブランド(オーデマ・ピゲ、ピアジェなど)は大きな変化の波を被らずまずは安泰。高級ブランド(ロンジン、ティソ)などは中国人中間層の人気を集め、安定成長が期待できる状況にある。多少懸念があるのはその次の格のブランド(オメガ、ロレックスなど)で、ややもすると過剰生産・過剰露出の危険があり、自らのブランドの立ち位置を改めてよく見直さなければならないようだ。総じて言えば、各ランクでの棲み分けと相乗効果を図りながら、うまく消費者に訴えかけていくのが最良のシナリオと考えられている。
中国人の消費トレンドに気まぐれさ、不安定さがあるのも悩みの種。現に昨今の政権交代をうけて贈答の慣行が急速にしぼみ、それが原因で2012年は中国でのスイス時計の売れ行きが減少したとの観測もある。「特定の顧客層に頼りすぎない」という方針を再度確認し、マーケティング戦略上様々なバランスを図っていく必要がありそうだ。
「中国問題」に比べると影響力はまだ小さいけれど、ロンゲ氏によれば販売店舗の体制にもきちんとした変化を考えるべき時期が到来している。これまでスイスの時計に関しては、直営店のネットワークがきちんと築かれておらず、例えば世界の高級皮革製品市場について70%以上が直営店で売られているのと比べると、いわば遅れを取っている。確かに直営による適切な出店を重ねていくためには多大な資本投下が必要だが、それが達成されればブランドイメージの堅持、価格の安定、並行輸入の回避といった諸々のメリットがある。上記のように時計の需要が不安定に動く傾向が現れている中で、メーカー、あるいはブランドとして直接各地のショッピングモールに店を出し、高い収益性を確保するといった工夫が必要になってきているということだろう。
さて3点目の構造変化だが、これは業界の特別な事情に関わるものだ。スイスの時計は、これまでムーブメント(部品)の製造の大半をスウォッチ・グループに委ね、これを組み立てて製品化するという、かなり特異な仕組みの下で成り立ってきた。ところがここにきて、スウォッチがムーブメントの他社に対する供給を大幅に削減する方針を打ち出し、各業者に大きな衝撃が走っている。ロンゲ氏は、大部分の業者が他の部品供給先(タグ・ホイヤー、LVMHグループ、セイコーなど)を確保しつつあることから、甚大な影響は避けられるとしながらも、小規模な製造元では合併等の動きが進む可能性が高いこと、大手でも部品製造関係で新たな投資が必要になることなどを指摘している。また部品供給先が外国企業になった場合、「スイス製」の称号(現在のところ、スイスで作られた部品が50%以上の場合に使用できる)を名乗れるかどうかという問題も生じてくる。最近の動きはある意味「正常化」という印象もないわけではないが、メーカーにとっては今後の展開において重荷になる要素と言える。
需要の国際化とそれに伴う不安定化、企業体としての統合や大規模化の動き…これらは時計に限らず、高級消費財の製造企業全般に当てはまる動向と言えるかもしれない。スイスの屋台骨である時計産業は、こうした動きへの適切な対応なしに堅調な展望は期待できない状況にあるようだ。