『パリでお昼ごはん』

稲葉由紀子『パリでお昼ごはん』(TBSブリタニカ、1997)読了。『フィガロ・ジャポン』誌に連載された記事をまとめたもので、1987年から家族とパリ郊外に在住する著者による体験記的ガイド本。「お昼ごはん」というのが通常のパリ・グルメ本と違う趣を漂わせる。それぞれの店のランチの魅力を伝える文章に大きな写真が添えられており、楽しく読み通した。
「基本的にビンボーなので、仕事がらみで高いレストランに行く場合を除けば、選択肢はかなりかぎられる。5年くらい前までは、50フラン以下で食べられるところという厳しい条件をつけていた。このごろはさすがに無理で、60フラン、ワイン付きなら70フランまでは許すことにしている。でもこれで、いわゆるグルメ・ガイドに載っているレストランのたぐいは大部分失格。生き残っているのは、中華、イタリア、ギリシア、トルコなどの外国レストラン群と、私がかぎりない親しみをこめて『定食やさん』と呼ぶ、いくつかのフランス伝統家庭料理店だけになる。」(6頁)
フランスフランのレートなど忘れかけているが、当初の記事が書かれた頃は1フラン20円ぐらいの相場。だからこの本にはいわば1000円前後(場合によっては100フラン以上、2000円近くのメニューも登場するが)のランチを出す店が紹介されていることになる(500円ぐらいの定食がいくらでもある日本から見るとそれでも高い気もするけれど、そこは文化の違いということでやむを得ない)。夕飯は自宅で家族と食べるとして、昼食を外でいかに安く、おいしく楽しむか。著者の生活に即したテーマ設定から、いきいきとした61店の「食べある記」が生まれることになった。
上の引用文にもあるように、この本の特徴は数多くの外国レストランが紹介されていること。ポルトガル料理、モロッコ料理、ベトナム料理といった、日本でも比較的店を思い浮かべやすいジャンルから、セネガル料理、クルド料理、ペルー料理などかなり異色の店の紹介まで。著者がいろいろなメニューにチャレンジし、比較的率直に感想を述べているところに好感が持て、それぞれのレストランにも興味が湧く。さらにフランス国内の各地方にも目配りしており、プロヴァンスはもちろん、リヨンやコルシカの名物料理なども紹介されている。
以下備忘のために、印象深かった文章をいくつか。
「ステーキはフランス人がもっとも日常的に食べる料理で、これにフライドポテトを添えた『ステーク・フリット』は、たいていのカフェや定食屋の人気メニュー。ただし店によって味の差が大きくて、焦げていたりパサパサだったりと悲惨な例も多い。同じステーキでもアントルコットだのフォ・フィレだのと肉の部分の名前がつくと、もう少し高級料理になる。バヴェットというのはフィレのすぐ横の赤身肉で、ちょっと固めだけれど味がよく、汁けのたっぷりある部分だ。」(32頁)
「フランスには日本人よりずっと多くのインド人が住んでいる。ただし旧統治区のマドラスやボンディシェリなど南出身の人々がほとんどで、人相も北の人の苦行者のような鋭い表情に比べると、丸くて優しげだ。10区にあるパサージュ・ブラディには、香料を商う店やインド・レストランが並んでいるが、これがパリで唯一のインド街だ。/パリのインド料理店はというと、白檀の透かし彫りや金細工で飾られた接待用高級レストランか、あまり客の入らない寂しい場末の安食堂風か、の両極端になってしまう(…)。」(110頁)
「昔ながらの格調あるサロン・ド・テやビストロの片隅で、ひとりぽつねんと食事をとる高齢の女性の姿をパリではよく見かける。毎日決まった時間に決まった席で、一杯のボルドーを少しずつすすりながら時間をかけて軽い料理をやっと一皿、それも全部は食べられずに残していたりして。/ところがこの女性たち、料理のあとのデザートはぜったいに省略しない。一切れのタルト、一片のチョコレート・ケーキを前に目を輝かせ、満ちたりた表情。そして最後の一匙までゆっくりと味わい、平らげる。まるでデザートのために、やむをえず料理を食べているようだ。」(158頁)
「フランスにあるイタリア・レストランはたいてい麺がゆで過ぎで、がっかりさせられる。イタリア人経営だって安心できない。なぜか国境を越えたとたんにパスタがひどく柔らかくなるのだ。アルザスにも昔から肉料理の付け合わせにする名物の卵入り麺があるけれど、これなんか伸びたウドンみたいにグニャグニャだ。」(168頁)
まさにその通りと頷いたり、なるほどねと思ったり。
本書には、雑誌掲載時以降に閉店したり、オーナーが代わったりした店もそのまま載っているが、その数は10店弱。実は本書の続篇(改訂版?)として『新・パリでお昼ごはん』が2002年に刊行されており、本書で取り上げた店を再取材した部分も多いようなので、ガイド的要素に期待するなら新篇を読んだ方がよいだろう。それでも、わずか数年のうちに61店のうち10店ほどなくなってしまったりするのだから、2002年の本でもどれだけ現時点のレストラン巡りに直接役立つかは疑問。自分としては読み物として、パリで食事をする時の高揚感に出会いたくて本書を手に取ったので、旧篇でも充分満足、堪能したのだった。