「ちいさな哲学者たち」

なんとはなしに当ブログへのアクセス記録を調べていたら、今年1月16日付日記へのアクセスが増えていることを発見。この日のブログで取り上げたフランス映画「ほんのはじめて」が「ちいさな哲学者たち」という題で日本上映されるということで、興味を持った人たちがなぜか当ブログに辿り着いたらしい。これは責任上(?)見ずにおかずばいられまいということで、新宿に当映画を見に行く。土曜日の夕方、100人弱の観客が集まっており、フランスのドキュメンタリー映画としては相当の関心を惹いているものと思わせる。興行的にもそれほど悪くないのではないか。
さて、映画を見つつ、見終わった後もいろいろ考え込んでしまった。どんなふうにこの映画を持つ意味を自分なりに整理したらよいか、うまい着地点が見当たらなかったからだ。パンフレットも読んでみて、ようやく当座の結論として考えた結果を以下記しておこうと思う。一言でいうと、「パリの幼稚園での哲学ワークショップという試みは、『画期的、革新的な取り組み』としてではなく、『フランスらしい教育実践の自然な成り行き』として捉えた方がよいのではないか」というのが現在の考えだ。
確かに、パンフレットの「プロダクション・ノート」にあるように、ジャック・プレヴェール幼稚園でパスカリーヌ先生が月2回程度実施している「哲学のアトリエ」は、「フランス初の試みであるとともに、世界初の試み」であろう。しかし一方では、フランスをはじめ世界各国で、小学生などいわゆる「子ども」に対し、哲学的な物の考え方に取り組ませようという研究や実践の積み上げがここ10年以上なされており、幼稚園児への展開というのはその延長線上に過ぎないとも言える。「幼稚園児には早過ぎる」という疑問や批判に対しても、「やり方次第ではないか」という反論を返すことは決して難しくはない。日本では「哲学」というとどうしても身構えてしまい、小学校であれ幼稚園であれ、子どもには似合わないものという先入観から始めがちであるが、このドキュメンタリーが示す教育上の実践について考えるときは、まずそういった彼我の差というものをよく押さえておく必要がある。
彼我の差を考えるというのはこの映画の理解のために非常に重要だ。だいたい、「哲学」ということばの捉え方自体が、日本とフランスで相当違うことを認識しなければならない。この点に関し、「ここで言う『哲学』とは、つまりはフランスで言うところの哲学というものらしいと思い当たる。それはおそらく、自分の中の良識を信頼し、それを元に自分の責任で言葉を発することを指すということなのではないか」、「この子どもたちが『哲学』という名称で連想されるような、驚くほどの抽象性を示すわけではない」というパンフレットでの無藤隆氏(白梅学園大学教授)のコメントは示唆に富むものである。パスカリーヌ先生に促されて、園児たちは愛について、死について、リーダーについて考えるが、日本の子どもたちだって、親に「死んだらどうなるの?」とか、「菅さんって何してる人?」とかいう問いを親たちに発している。親はそれにうまく答えられないかもしれないけれど、子どもがその後も潜在的にそういう問いに向き合い続けていることは疑いない。優れた児童書はそうしたテーマについて子どもたちに深く考えさせるものであるし、そもそも、子どもたちの日々の生活そのもの(幼稚園でけんかしたり、祖父母が亡くなったり、発表会で演技をしたり)の中に、いわゆる「哲学」の種はいくらでも転がっていて、子どもは否応なくそれにつきあうなかで大きくなっていくのではないのだろうか。
後は、そうした問いをどれだけ言語化するか、という点に、まさに「彼我の差」が現れるように思われる。ジャック・プレヴェール幼稚園の哲学アトリエで、園児たちはそれぞれの問いに対する答えを考え、それを言語化するようパスカリーヌ先生に求められる。そこが画期的だというのだろうが、それはむしろ「フランス的」なのだというべきではないか。雄弁と明晰を旨とする言語生活を送るフランス人というのもステロタイプかもしれないけれど、そういう人々が多いのもまた事実。「自分の考えを言語化し、遠慮せずに語る」というのがフランス人の精神性の核の一つにあるのは確か。こうやって考えてくると、哲学のワークショップが園児たちに拓く未来は、ルソーだパスカルだというリセの授業での徹底的な「抽象性」に基づく哲学的思考というよりも、むしろ「考え、話す」という、個人として生きていく上での基礎的な態度の習得ではないか、と思えてくる。そうすれば、「幼稚園で哲学をやっても次がリセというのでは間が空きすぎる」という議論(前のブログでも紹介した)はあまり意味をなさないような気がしてくるのだが、どうだろう。
要するに、日本では幼稚園児に哲学を教えるなんて考えられないと、過度にびっくりする必要は全然ないということだ。日本でも子どもが物を考え、思考を深めるための実践は、教育という形であれ、親子のコミュニケーションという形であれ、いろいろな姿を取りつつ行われている。それでもなおこの映画から汲み取る点があるとすれば、「物を考える態度を身につける」ということを第一に意識して教育する意味があるか、またそれを幼稚園からはじめるか、小学校低学年からにするかといった問いを、教育や発達心理に携わる人々が深める一助にするということではないか。それともう一つ、フランスほどではないにしても、日本でも「考えたことを言語化して人前で発言し、議論する」という教育実践は、もう少し盛んになってもよさそうに思われる。
以上、映画とパンフレットと多少の情報という少ないソースをもとにして、あれこれ考えてみた。思いつきの部分が多くなっているけれど、子どもの哲学についてしばしば引き合いに出されるミシェル・オンフレイの著作など、基礎知識として踏まえておくべきことはまだ数多くあるだろう。今後も思索を深めていきたいと思う。
最後に、映画の素朴な感想を少しだけ。園児たちはほかのテーマに比べて「愛」というテーマにはやたら食いつきが良くて(「好き」と「愛してる」はどう違うのか、とか)、このあたりも実にフランス的に思えたこと。それから、パスカリーヌ先生が他の園児を叩いた子どもを叱るシーンが出てきたが、この叱り方は哲学的ではなかったな(「叩くことは本当に解決にならないのか」とか、きちんと考えさせればよかったのに。やっぱり「しつけ」は哲学を上回るのかしらん)と感じたこと。そんなところだろうか。