高級レストラン「ラセール」、伝統から革新へ

パリ8区、シャンゼリゼ大通りからセーヌ河方面へ少し入ったところに一軒家を構えるレストラン「ラセール」。辻調グループ(調理師専門学校)創始者でフランス料理研究者としても知られた辻静雄氏は、その著書『パリの料亭』(新潮文庫、1982年)の巻頭をこの店の紹介から始めている。「パリの料亭の中で私が最も好きな店の一つで、もしパリに一泊しかいないとなれば、昼か夜に必ず予約していきます」、「室内装飾がお客さまの目を楽しませ、優雅な雰囲気にひたらせ、心のこもったサーヴィスに王侯貴族の生活を思わせるほどの行き届いたもてなしがレストランにあるとすれば、ラセールこそ、その絢爛豪華な花咲ける料亭として訪ねる人に思わず感嘆の声をあげさせるに違いありません」(36〜37ページ)といった記述は、ほぼ手放しの絶賛といってよいだろう。そんなレストランだからこそ、その70周年に当たり、フランスの新聞も文化面に大きな記事を堂々と掲載するのだと思う。12月1日付『ル・フィガロ』紙は、ミシュラン2つ星(かつて3つ星だった時期もあった)超有名料理店の歴史と現在について綴っている(Lasserre, entre douceur et inertie. Le Figaro, 2012.12.1, p.40.)。
この店、1階は宴会に使われるサロン、2階が通常のレストランフロアになっていて、辻氏が描いているように装飾やそれがもたらす雰囲気には他の追随を許さない卓越したものがあるようだ。特徴的なのは、2階の天井が開放可能型になっていて、夜になると(天気や季節により)星が見えるように大きく開かれるということ。2階に上がるエレベーターはビロード貼りの宝石箱のようであり、一歩フロアに入るとそこでは、家具から食器まで全てが得もいわれず古典主義的な、それでいて居心地のよい感じを漂わせている。食事もすこぶる美味で、メインの「鴨のオレンジ煮」、デザートの「タンバル・エリゼ(太鼓の形に成型したクッキー生地の中にアイスやフルーツを詰めたもの)」などは不動の定番メニューになっている。さらに辻氏も書いているように、人手を惜しみなく投入し、寸分も違わず行き届いたサービスも、このレストランを名店にする大きな要素となっている。
ラセールは多くの有名人が集う店としても知られており、その代表格としては『人間の条件』などの大著で知られる作家、アンドレ・マルローが挙げられる。1960年代、ドゴール政権下で文化相を長く務めていた頃、彼は一時のやすらぎを求めて週に4度も5度もこの店に通ったといい、彼の席は入口に近い26番に固定されていたという。大臣として公式に渡米して当時のニクソン大統領に面会した際、大統領から「当方の食事はラセールのものほど美味しくないと思いますが、それに近付くよう努力しています」との発言があったとの逸話すら残っているそうだ。創業者で当時のシェフだったルネ・ラセール氏はジビエ料理が大好きだったマルローの求めに応じ、小骨を完全に取り除いた鳩の肉に詰め物をし、ソースを添えた料理を創作して絶賛を得たと言われ、今でもこのメニューは「鳩の煮込み、アンドレ・マルロー風」として健在である。
他の有名人の顔ぶれも豊富で、画家のサルヴァドール・ダリは常連の一人だったし、ロジェ・ピエール、ジャン−マルク・ティボーの俳優コンビ、また数奇な運命を辿った女優、ロミー・シュナイダーもラセールを訪れていたという。1階のサロンはクラブ・キャセロールと名付けられ、ここでの宴会に参加した者の中にはブリジッド・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、シルヴィア・クリステルなどがいる。さらに政治家ではジャック・シラク氏、リオネル・ジョスパン氏、さらにフランス共産党元書記長のジョルジュ・マルシェ氏など、左右問わない大物たちがこのレストランを利用したことがあるそうだ。
老舗であるからこそ、伝統と革新は共に追求すべき重要なテーマ。装飾やサービスは伝統をしっかりと受け継いでいるこの店も、料理については特に90年代末以降、少しずつ現代化も図っているらしい。2年前にジャン−ルイ・ノミコス氏の後を継いでシェフの座を得たクリストフ・モレ氏(プラザ・アテネで長年調理の指揮を取ってきたベテラン)は、例の「鳩の煮込みマルロー風」について、詰め物にこれまで使っていた豚ばら肉を牛肉に改め、ソースも調理時にからめるやり方から最終的に皿に沿えて供する形に変更したという。あらゆる要素が客にとっての楽しみになるレストランだからこそ、今後もトップクラスの評価を維持するためには、伝統を活かして新しいものを作り出していく冒険心も必要になってくるということなのだろう。